非公式ピノキオP研究所

ピノキオP及び諸作品について

"Obscure Questions" 読解 〈後半〉

ピノキオピー1stメジャーアルバム"Obscure Questions"の19曲目。

ニコニコ動画及びYouTubeには公式にアップロードされていない、

アルバム限定収録曲。

 

ロック調の勢いと爽快感に溢れる演奏で、一気に駆け抜けていく一曲。

これは前半の続きです。

 

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⑦を含む三行

誰かにとって神様と呼べるようなアーティストを消し去り、その人にとって代わりの神様となれるような能力のあるアーティストが現れたとして、その最初の勢いがあるころは、「弱虫のエレジー」を歌うことなんてなかったけれども、結局は、今の作者と同じ顔、「弱虫のエレジー」を歌うようになる。そんな繰り返しには作者はもうくたびれてしまった。

 

⑧を含む四行

作者の意図する通りに理解してくれないリスナーの存在が、作者自身の曲をを明瞭さから遠ざけるんだという「言い訳」の理屈でもって、作者は「曖昧なうた」を創る。

 

key:作者の愛情と本性

リスナーへの「雑な愛情」=創作のモチベーションとしての価値を確信的ではないながらも認める気持ちと、「(雑な)本性」=どうせ意図する通りに理解してくれないだろうと期待することをやめた気持ちを、楽曲に適当に「テキトー」(=「適当」ではない)に混ぜこぜにして、曲を創ってしまう。でも、そんな自分をどうかと思う。

ならいっそ、作者の意図しない解釈を正解としてしまおうか。リスナーは歌曲の一部分だけを見て、一度曲の解釈を決定してしまうと、他の大部分を我田引水して、修正しようとせず、後付けの意味を楽曲に見出すのだろうから。

 

key:歌曲が最後に残すもの

こうした状況に於いて、作者のことを好きだという感情や、何か素敵な意味のあることを歌っているに違いないという期待がリスナーから無くなったあとに、楽曲はリスナーに何を残すのだろうか。

"Obscure Questions" 読解 〈前半〉

ピノキオピーメジャー1stアルバム"Obscure Questions"の19曲目。

ニコニコ動画及びYouTubeには公式にアップロードされていない、

アルバム限定収録曲。

 

ロック調の勢いと爽快感に溢れる演奏で、一気に駆け抜けていく一曲。

 

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を含む三行

①を含む三行の思考の過程を経た結果、「曖昧なうた 歌う」わけだから、この歌詞の主語は、作詞家・作曲家・歌詞である。

 

②を含む六行

たとえ音楽の趣味が、この歌曲の主語(以下、作者)と一緒だろうと、この曲を聴いてくれるあなた(リスナー)の周りには、この曲を聞く人が多く居るわけでもないのに、こうして嬉々として聞くのはなぜなのか。

注意深く耳を傾けるという意味のある「聴く」ではなく、単に「聞く」である部分もチェック。

 

③を含む二行と、①

「悲劇を笑い飛ばす度」に、ためらい迷うとあるのだから、「また同じかもね」とは、「また同様の悲劇が起こるだろう」という意味。また、その悲劇が起こってしまう可能性を「疑い過ぎて」、思考回路がバグりかけた、とある。

 

key:悲劇」とは何か。

④を含む二行

作者の歌曲に対する意図しない反感も、共感も、歌曲を「曖昧なうた」にすることで、「この歌曲の内容をそのように言い切ることはできない、それはいい加減で認められるものではない」と切り捨てることを可能な状態にしたい。

という風に読めることから、

「悲劇」とは、「作者の意図する通りに歌曲がリスナーに受け取られないこと」であることがわかる。 しかし、こうした楽曲は、作者の勇気と技量の不足が原因であって、弱虫の哀歌に過ぎない、とも作者は思っている。

 

⑤を含む二行

そして、これから、(メジャーというより大きな舞台で)新曲を発表するけれども、それは、舞台の大きさがゆえに、作者の意図通りにみんなに解釈してもらえるという夢や希望を壊されに行くことである。

 

⑥を含む三行

頑張って創り上げた楽曲を、わざわざ自ら進んで壊されに行くなんて、私は何をしているんだ。壊されるのが楽しみだなんて、そんな強がりを言ってまで、何故に曲を創り続けるのか。たぶん、その理由は、それでも歌を聞いてくれるリスナーが好きだからなのかもしれない。(きっと〜かな という大変に予測的な言い方が為されている。個人的にはここがピノキオPらしいとも思う。)

 

key: 希望のない中、曲を創るモチベーション = リスナーの存在

ただし、この等式の存在を確信は出来ていない、という点にも留意しておく。

 

後編へ続く。

『ベニチオデルトロ』の構造

ピノキオPの七作目。

作詞・作曲・編曲をピノキオPが手がける。

この楽曲は、歌詞そのものよりも、全体の構造の方に重要な意味が込められているので、この記事のタイトルを「読解」でなく「構造」にしました。

 

 

 「いわゆる卒業ソング。」とピノキオPに銘打たれ発表された『ベニチオデルトロ』は、全くもって「いわゆる卒業ソング」の体を為していません。

「卒業ソングと云いながらこのカオスさ」という論理の破綻を用いた単なるギャグなのでしょうか。 後に『かえるたちのうた』『ラブソングを殺さないで』『ニナ』といった楽曲を発表するほどに理知的なピノキオPがそこまで浮薄なギャグをかますとは考えにくいですね。(本当に単なるギャグなのかもしれませんが)

 

それでは、この曲を発表した意図は何処にあるのか。 まず、この曲を取り巻く諸情報を整理しましょう。

①.殆ど意味のわからない、日本語なのかも微妙な歌詞

②.ふざけきったPV

③.ピアプロに示された「対訳」

④.「いわゆる卒業ソング。」という宣言

勘の良い読者の方はこの辺で気付かれたかと思いますが、この曲は、「〔いわゆる卒業ソング〕批判」の形をとっています。

 

まず、①から解説しましょう。

この歌詞を真面目に読解しようと試みるのはナンセンスです。「ピノキオPは、この歌詞は『ふざけた、内容の無いもの』だということを伝えたかったんだな」ということが判ればOKなのです。

 

次に②(ふざけきったPVについて)です。

このPVを真面目に解析しようと試みるのはナンセンスです。「ピノキオPは、このPVは『ふざけた、内容のないもの』だということを伝えたかったんだな」ということが判ればOKなのです。

 

次に③(ピアプロに示された対訳について)です。

 ピアプロでは、ピノキオP本人が、「歌詞の対訳」として、整った日本語の歌詞を掲載しています。 

piapro(ピアプロ)|オンガク「ベニチオデルトロ」

ここでは注目したい点が2点あって、

<1> 対訳が本当に「いわゆる卒業ソング」であること。

<2> ①で述べた、『ふざけた、内容の無いもの』の「対訳」としてこの訳が存在すること。

 

この対訳を真面目に読解しようと試みるのはナンセンスです。「ピノキオPは、『いわゆる卒業ソング』の詞を、『ふざけた、内容のないもの』とイコールで結んでいるんだな」ということが判ればOKなのです。

 

次に④(『いわゆる卒業ソング』という宣言について)です。

①から③までの構造を用意しておいて、改めて「いわゆる卒業ソング。」と宣言していることは、即ち、『いわゆる卒業ソング』= 『ふざけた、内容の無いもの』という方程式を強調したいが為なのです。

 

以上で、この曲の構造を理解して頂けたでしょうか。

ちなみに。 ベニチオ・デル・トロ - Wikipedia

 

次回は、この構造を踏まえた上で、ピノキオPは何を語ろうとしたのかということについて、個人的見解を述べます。

ピノキオPとカラオケ

(一人)カラオケでピノキオPの楽曲と他の有名Pの楽曲を歌ってみた所、

多くの有名Pが一般人にも歌いやすい音域で作曲しているのに対して、ピノキオPの楽曲の多くは音域が広い、または・かつ、音域がかなり高いです。 特に最近の曲に(『ニナ』『ひとりぼっちのユーエフオー』など)その傾向が見られ、中でもサビが非常に高い音程となっています。

 

初音ミクそしてボーカロイドは、「人間に出来ないことが出来る」という触れ込みでよく語られます。

例えば、「相当な早口で歌える」「人間のブレスの限界を超えられる」「人間にはほとんど不可能な音程の移行が可能である」などなど。

ボーカロイドにしか出来ない曲を、歌を作る」という理念があるボカロPも多いと思います。「広音域・高音域」な楽曲を多く作るピノキオPもその理念を持つ一人であると考えています。

 

まあもちろん、全曲が人間にとって大変な楽曲であるわけではありません。例えば『アイマイナ』や、『人間なんか大嫌い』は比較的歌える音程で構成されています。(この2曲が人前で歌える曲かと言われると割と微妙ですが)

 

各Pごとに各々の作曲論、作詞論があっていいと思うんですが、ピノキオPの場合は、「人間が歌う」ということをあまり想定していないようです。 (ひょっとすると、「ボーカロイドと人間の交差点」といったような事柄はオーパーツソケットで集中的にやるつもりなのかもしれません。)

DECO*27やみきとPは結構「人間が歌う」ということを意識してるなー、と歌ってみて思いました。

 

繰り返すようですが、「人間が歌う」ことを意識しているから偉いということではなくて、Pそれぞれの向かう場所が違うのは当然で、違うからこそ個性があり多様性が生まれるわけです。

 

ともかく、

ピノキオPはボカロ楽曲において「人間が歌う」ことをあまり意識していない ——

歌詞読解の大きな鍵の一つになりそうです。

 

ピノキオPのみならず、ボカロPを研究する際には、そのPは「ボカロと人間」をどう捉えているか、ということを探るとよいヒントが得られそうです。

『ニナ』読解 〈後編〉

ピノキオPの53作目。

作詞、作曲、編曲をピノキオPが担当。

(比較的細かく解説しています。手早く知りたい方は、太字部分、keyを中心にお読みください)

これは、『ニナ』読解 〈前編〉の続きです。

 

 

 

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⑦(を含む二行)

①同様に、科学技術の進歩した未来を示唆している。しかしこの行で新たに付与されているニュアンスがある。それは、この部分で述べられている現象が、現状の科学が目指す一つの到達点であるということである。無限に広がり続ける宇宙、今で解決され得ぬ遺伝子の謎、これらを担保にして人間は矮小さを自覚し、謙虚さを保っている部分がある。ここで挙げられている事態になったとき、人間の価値観は大きく変わるだろう。

 

key: 科学至上主義の果て

③で触れたように、<詩中の一人称>=ピノキオPは繰り返される技術革新と食傷に嫌気がさしている。そして、その嫌気は科学的=真理という科学至上主義への猜疑につながる。論理性があれば全て正しいのかと、ここで批判しているように思われる。

なぜなら、「遺伝子の謎」「宇宙の果て」「生きてる意味」これらは現在の科学が目指す到達点であるにもかかわらず、 「〜ちゃって」と結び、やや小馬鹿にしているからだ。このことから、ピノキオPは、 人間、そして真理は高々「論理」程度では解明し切れないと考えていることがわかる。

 

そしてもし、そのような到達点に達したとき、「論理」は何の役に立つのか。その次に「論理」は何が出来るのだろうか。

 

⑩(を含む二行)

自然科学や人文科学、いわゆる学問という崇高な価値を持つものよりも、もっとくだらなく、日常的な喜びの方がむしろ私(=ピノキオP)にとっては良いもの。

真理や神秘がギャグに近ければ、科学至上主義への自分の疑いと、学問以上に日常の喜びに価値付けた感性が正しいことが立証されて、嬉しい。

 

⑪(を含む三行)

科学至上主義とかいうイデオロギー(変な神様)を小馬鹿にしてみたり、(科学至上主義がまかり通っている)世の中、「嫌だな」と思わせるそんな世の中を恨む心も(作詞・作曲の)肥やしになればいいなあ。ねえ、初音ミク

 

⑫(を含む三行) 以下、「私」はピノキオPのことである。

天気が晴れること、野良猫に出会えることと言った日常的な喜びが私にとっては価値のあることだけれど、「未来」の(この曲を聴く)「君」はそんな喜びを享受できているのか、聞いてみたい。

そうした喜びを受け取れていようと、いまいと、私は「心配すんな。」と言う。そんな喜びは私が初音ミクとともに創り出していくから。

 

科学から離れた「人間的(日常的)な喜び」に満ちた、(科学至上主義の)皆が驚くような詩曲がつくれたらいいのにね。ねえ、初音ミク

 

以上です。

『ニナ』読解 〈前編〉

ピノキオPの53作目。

作詞、作曲、編曲をピノキオPが担当。

(比較的細かく解説しています。手早く知りたい方は、太字部分、keyを中心にお読みください)

 

 

 

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①(を含む四行)

価値観の変容、科学技術の発展を表現。後にでてくる「未来」のことでもあろうか。

 

②(を含む四行)

タイムマシン・空飛ぶ車 はいずれも未来的なものの代表といえる。それらが一般に普及し得るほど科学技術が発達した時代。そんな時代を迎えても、(詩中の一人称)はじきに慣れる。

 

key: 『科学技術が発達しても、じきに慣れる』

いくら科学が発達しても、最初は珍しくとも、それが当たり前になってしまっては、慣れて(飽きて)しまう。 技術発達→飽きる→技術発達→飽きる→技術発達→… という繰り返しの不毛さが「嫌だな」ということ。

 

④(を含む二行)

二行とも願望の形であるということから、<詩中の一人称>は現在生きていることが楽しくなく、憂鬱な未来の到来をほぼ確実なものと考えていることがわかる。

「憂鬱な未来」とは、③で触れた、無限ループのことである。 これが「嫌」だから生きていることが楽しくないのだろう。

 

ここでの「君」とは、この曲を聴いている人を指す。 「ニナ」を呼ぶときは「ニナ」と呼んでいるので、「君」は「ニナ」を指していない可能性が高い。

様々なニーズがあり、動画上でも色々と品評する私達を(憂鬱な未来が待っている状況の中でも)喜ばせたりしたいと<詩中の一人称>は考えているようだ。

 

key: 『ニナ』は誰か。<詩中の一人称>は誰か。

『ニナ』とは誰のことだろうか。このことはしばらく考えていたが、どうも答えが出せないでいた。そのため、ピ研憲章第三条に則り、あやふやなまま進めようかと思ったが、どうも解釈がすっきりしない。

そんな中、動画コメントを見ていたとき、

「3×9=27」

というコメントが賛同を得ていた。 たしかに、面白いねえ そうスルーしようとしたそのとき、ひらめいたのだ。

『ニナ』=『初音ミク

ということは、⑤を考えてみると、ミクを使って、私達を(詩曲を通して)喜ばそうとしている<詩中の一人称>っていうのは…

〈詩中の一人称〉=ピノキオP

ということになる。

そう考えると、この詩は合点がいく。

 

key: この曲の詩はどういった構造か。

以上のことから、

この曲は、〈詩中の一人称〉=ピノキオPが現在の状況を様々に思弁し、その都度「ニナ」(=初音ミク)と呼びかけるという構造をとっている。

なので、ピノキオPが初音ミク及びボーカロイドを用いた創作に託している思いが詩には表れていると言える。

 

後編へ続く。

非公式ピ研憲章

<非公式ピノキオP研究所では、できるだけ、なにをして、なにをしないのか。>

 

  • 歌詞を読解します

   曲調との関係も加味します。

 

  • 自らが試聴できた限りのピノキオPのニコニコ生放送から、作品理解に役立ちそうな情報を記録します

 

  • 歌詞を空想しません

   歌詞中に論拠の無い解釈は行いません。

   あやふやなものはあやふやに。

 

  • ピノキオPをピノキオP以外としてみません

   ピノキオPに関して、不必要な詮索はしません。

 

 

<歌詞解釈について>

一つの曲に十人十色の解釈が存在することは素晴らしいことです。そうであってこそ名曲と言えるかもしれません。

その十人十色の解釈が、解釈者本人の思い込みをを強く反映した、多少歌詞と矛盾する解釈であっても、仕方が無く、それは否定されるべきことであるとも思いません。

ただ、ここでは、皆様の解釈の一つの参考としての、「矛盾の無い解釈」を記していきたいと思います。

 

それでは皆様、たのしいピノキオPライフを!