非公式ピノキオP研究所

ピノキオP及び諸作品について

『ニナ』読解 〈後編〉

ピノキオPの53作目。

作詞、作曲、編曲をピノキオPが担当。

(比較的細かく解説しています。手早く知りたい方は、太字部分、keyを中心にお読みください)

これは、『ニナ』読解 〈前編〉の続きです。

 

 

 

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⑦(を含む二行)

①同様に、科学技術の進歩した未来を示唆している。しかしこの行で新たに付与されているニュアンスがある。それは、この部分で述べられている現象が、現状の科学が目指す一つの到達点であるということである。無限に広がり続ける宇宙、今で解決され得ぬ遺伝子の謎、これらを担保にして人間は矮小さを自覚し、謙虚さを保っている部分がある。ここで挙げられている事態になったとき、人間の価値観は大きく変わるだろう。

 

key: 科学至上主義の果て

③で触れたように、<詩中の一人称>=ピノキオPは繰り返される技術革新と食傷に嫌気がさしている。そして、その嫌気は科学的=真理という科学至上主義への猜疑につながる。論理性があれば全て正しいのかと、ここで批判しているように思われる。

なぜなら、「遺伝子の謎」「宇宙の果て」「生きてる意味」これらは現在の科学が目指す到達点であるにもかかわらず、 「〜ちゃって」と結び、やや小馬鹿にしているからだ。このことから、ピノキオPは、 人間、そして真理は高々「論理」程度では解明し切れないと考えていることがわかる。

 

そしてもし、そのような到達点に達したとき、「論理」は何の役に立つのか。その次に「論理」は何が出来るのだろうか。

 

⑩(を含む二行)

自然科学や人文科学、いわゆる学問という崇高な価値を持つものよりも、もっとくだらなく、日常的な喜びの方がむしろ私(=ピノキオP)にとっては良いもの。

真理や神秘がギャグに近ければ、科学至上主義への自分の疑いと、学問以上に日常の喜びに価値付けた感性が正しいことが立証されて、嬉しい。

 

⑪(を含む三行)

科学至上主義とかいうイデオロギー(変な神様)を小馬鹿にしてみたり、(科学至上主義がまかり通っている)世の中、「嫌だな」と思わせるそんな世の中を恨む心も(作詞・作曲の)肥やしになればいいなあ。ねえ、初音ミク

 

⑫(を含む三行) 以下、「私」はピノキオPのことである。

天気が晴れること、野良猫に出会えることと言った日常的な喜びが私にとっては価値のあることだけれど、「未来」の(この曲を聴く)「君」はそんな喜びを享受できているのか、聞いてみたい。

そうした喜びを受け取れていようと、いまいと、私は「心配すんな。」と言う。そんな喜びは私が初音ミクとともに創り出していくから。

 

科学から離れた「人間的(日常的)な喜び」に満ちた、(科学至上主義の)皆が驚くような詩曲がつくれたらいいのにね。ねえ、初音ミク

 

以上です。